RAFTの企画「身体の知覚 カラダノチカク」は、知覚と認知の境界を行き来するようなアーティスト、喜多尾 浩代さん、菊地びよさん、横滑ナナさんの探求から、普段は忘れてしまっている身体の知覚、その可能性を再発見しようという試みです。お三方のこれまで活動や、それぞれの「身体の知覚」への向き合い方をお聞きしました。

●それぞれのこれまでの活動について、お聞かせください。

「奥のほうにある現実」と
自分の感覚をつなげる


菊地びよ:子どもの頃にバレエを習っていたのがまず最初です。ただその時は、踊るの楽しいなあ、身体を動かすのが好きだなあって感じだけだったんです。身体の表現という意味で興味を持ったきっかけは、高校生の頃に耳の不自由な方々の表現に出会ったときから。そのときに身体での表現の可能性を知りました。その後、学生時代に演劇の世界に足を踏み入れながらも、私は「言葉ではないな」と感じたんです。そんな頃、たまたま手にしたチラシで、大野一雄さんや太田省吾さんなどが講師となるワークショップを知り、大野研究所へ通いました。そこは誰でも受け入れる研究所でした。絵を描きたい人、詩を書く人、人生に悩む人、いろいろな人がいましたね。さまざまなワークショップに通いながら、いろいろな人々と知り合い、その繋がりで、島根の原発のある漁村に2年半通うんです。同じ時期に、東京の「日の出の森」という山林を開発してゴミ処分場にするという計画に反対する活動のお手伝いをしたりするんです。自分にとってはそういったことに参加することによって「現実の奥」のほうが見えてくるような感じがしました。そういった活動に参加しながらも大野研究所に通い、「私の足の下に死者が眠っている」と話されるのを聞いたりすると、いろいろな状況がよりくっきりと見えてくる感じがしました。普段なにげなく生活していると感じられないような「奥のほうにある現実」と自分の感覚をつなげる、そのための作業として、私は身体を使った表現をして行きたいと、その頃から思い始めました。まずはそんなところでしょうか。

身体だけで空気が動いて、
何かが見えるっていうことに驚いた

横滑ナナ:私は、子どもの時に踊りをやっていたとか、そういった経験は全く無いんです。すごくあこがれを持っていたんですが、そういうものの外側にいた子どもだったんで。まあ紆余曲折あって、自分は美術の方に向かったんです。大学で美術を学ぶようになってから、いろいろな意味で自由になって、劇団に所属してみたりワークショップに通ったりとか、そういう感じで入り込んでいったのが、パフォーマンス表現をするきっかけです。いずれにしても、創造活動をすることで、すごく楽に生きられるような気がしてたんですね。絵を描いてれば何か落ち着くとか、そういうところを自分が発見したのが大きかったように思います。20代の時に舞踏を観る機会があって、すごくショックを受けたんです。その時に自分の意志とは関係なく、何かを観て涙が出るという経験を初めてしました。身体だけで空気が動いて、何かが見えるっていうことにすごく驚いたんですね。それで、私もここに行きたいって。ただ、それまで身体を使うことに関しては全く未知の分野だったので、20代は、身体で何か表現したいと思いつつ、どうしたら良いのか分からない感じでした。30代になる頃から身体訓練のために様々なボディワークのスタジオへ通ったり、ワークショップなどに参加して本格的にトレーニングを始めました。 たまたまあるカンパニーで舞踏的な身体のあり方を作品作りに取り入れている方と出会い、私はその方に非常によく面倒をみていただいたというのか、その方が、素人のような私をとっても面白がってくれたんですね。その方のカンパニーに参加して、舞踏とは何ぞやみたいなことを結構深く考えるようになったんです。そんななかで、舞踏家大森政秀の踊りを見るきっかけがあったんです。「あー、この人に会いに行かなければ」と思って、それがちょうど、10年前ぐらいです。それ以降ずっと大森さんの天狼星堂(てんろうせいどう)にお世話になっています。

子どもの頃、感覚の世界で踊っていた

喜多尾 浩代:小さい頃、遊びがダンスだったんです。昼過ぎごろから始めて、家族が帰って来るまでの時間、自由気ままな創作ダンスに夢中になっていると、だんだん夕暮れ時になってくるんです。黄昏時、世の中が変わるんですよね。それまで見えてたものが見えにくくなったり、見えなかったものが見えたり、それまでの明暗がはっきりしてる世界から、少しずつ曖昧になっていく感じ。その時に、自分の身体がファーっと飛んでいったり、隙間や暗闇が広がりくるみたいな、そういう時の感覚と時間がとても好きでした。ダンスを始めたのは5才、親に言わず友達の練習について行ったのが始まりです。通い始めたのが、ドイツのマリー・ヴィグマン系のモダンダンスを教える研究所だったんです。それは、舞踏の大野さんや土方さんが初めに学んだモダンダンスと同系統のものなんです。ダンスを習うこととは別に、でも同時期にカラダっていうものに非常に執着心がある子どもでした。その頃の愛読書が「人体」というタイトルの図鑑だったんですよ。高校受験の前にダンスをやめて、今で言うところの医学部の保健学科に進学。身体のことを勉強するのはすごく楽しかったですね。その頃はダンスのことを忘れていて、その後も研究で満たされてたつもりだったんです。でも、ある時、身体の右側はすっごい充実した感覚があるのに、左側がスカスカした感じがするんですね。で、この感覚は何なんだろうって思ったときに、子どもの時に感覚の世界で楽しく踊っていた時のことがフラッシュバックしてきたんです。あ、もしかしたら身体の半分は、それを求めてるのかもしれないって思いました。大学院修了後も大学での研究を続けながら、ダンスを再開したんですね。でも、稽古をしても作品を踊っても、子どもの頃のような充足感は得られない。身体の左半分のスカスカを充たすために、自分で何か方法を見つけないとなと考え、いろんなワークショップに参加するようになりました。要所要所でいいなと思えるものに出会えたのだけど、夢中になってレッスンを受け始めると神経系を介してカラダがつぶれていく。これは、もう自分でメソッドから作っていくしかないなと思ったんです。時を経て、今の私は、舞踏でもないコンテンポラリーダンスでもモダンダンスでもない……そうした自分の表現と、身体との向き合い方を「身体事(しんたいごと)」と名付けて活動しています。


●びよさん、横滑さん、喜多尾さん、それぞれ通ってきた道筋が違うんですね。でも、感覚に正直に、ごまかさずに追求していく感じが共通しているように思えます。次に、いま表現することにおいて、重きを置かれていることなどをお聞かせください。

この場を形成しているものの一つとして、
原発や政治にまつわる問題も
あるんじゃないか

びよ:私は「場」との対話っていうのも大事にしたいと思っているの。「場」って「現実」って言っていいかも。いまこの場にあるもの、私の足を支えているもの、さらには日常と遠くのほうで繋がっているものも含め共有していきたい。

●びよさんは、原発や環境などの社会問題にもコミットしていますよね。表現を通じて社会と繋がりをもつということを大事にしている感じですか?

びよ:うーん、社会って言うとなんか漠然としてしまうので、そうは言いたくないんです。私はその場その場で取材のようなものをするんですね。その場に関わっている人とコンタクトすることによって自分のなかに関係性や社会性、歴史性が生まれてくるんです。そうしていくと、自分自身の感覚がいろいろな事柄と繋がっていると実感できるようになるんです。私はその場を形成しているものと自分の感覚とを繋げて、その場にいる人々と共有していきたいと思っているんです。で、いまこの場を形成し、私たちの日常を支えているものの一つとして、原発の問題や政治にまつわることもあるんじゃないかなあと思っています。

あ、いま日が落ちたなって思う瞬間が、
すーっと体に入ってくる

横滑:お話聞いてると自分がすごく稚拙な気が……(笑)。先ほど、喜多尾さんが子どもの頃の夕暮れ時のお話しされてたじゃないですか。私、2006年から3年間、野外で踊る時間をつくってたんです。ちょうど夕暮れ時を選んで。日が暮れる時間から真っ暗になるまで、だいたい日が落ちる50分前からスタートするっていうことをやってたんですね。それを「ゆふつづ時間」と言ってやっていました。「ゆふつづ」という言葉が万葉集のなかにあるんです。明けの明星とか宵の明星、要するに一番星が出る時間。で、そういうことを続けていると、日常生活をしていても、あ、いま日が落ちたなって思う瞬間が、すーっと体に入ってくるんですね。そういうことがやっぱり、身体訓練とは別の次元で、自分の体に必要だったなと思っているんです。それは技術として誰かに教えてもらうことでもなく、その季節の温度や湿度とか、雨の質とか、土の熱とかその場で感じていくことで気付くことがあるんです。そうすると「あ、さっき、あそこから吹いてきた風が今ここに」っていうような、時空を越える感覚を経験することになる。で、その「ゆふつづ時間」は一応お客さまにも来ていただいたんですが、見せ物としての作品っていうことよりも、その場を共有して、同じことをちょっとでも感じてもらうことが大事かなって、それはやってみてわかったことなんですけど。その3年間のことが私のなかでは一番のベースになっていて、劇場でやる時もその感覚を手足と同じように大切にしています。

「感覚する」という要素がとても大事

喜多尾:私もナナさんと同じように屋外で感覚する身体の探求をやってきてて、路地や自然のなかで感覚が研ぎ澄まされてくると、いままで感じられなかったことに沢山気付くんですね。いろいろな思い込みが剥がれていく感じがあるんです。それと、その場で本当に感じたことだけに応答していくと、身体のあり方が変化していくんです。そういったことをワークショップでは、いろいろな人に体験してもらっています。自分のなかでは、表現を支えている「創造」「想像」「感性」の全てに関わる「感覚する」という要素が、とても大事なんです。たぶん、感覚しているようで、知識と体験とを擦り合わせて納得していることが多いんじゃないかな。その域を超えたときに、多くの気付きに出会い、言葉になりにくい感覚に満たされたりするので、そんな時間を共有したいと思うんです。そして、感覚するっていうことを観る人に感じてもらえるような「身体事」をやっていきたいと思います。

●今回「身体の知覚」でそれぞれソロ公演をしていただくのですが、公演にあたって考えていらっしゃることについてお聞かせください。

横滑:ここ一年プライベートでいろいろなことが立て続けにあったんですね。自分のコントロールの効かないところで何かが起きると、自分自身も制御不能になるんだってことを身をもって経験したんです。そういった気持ちを引きずりながら、10月にソロ公演をやりました。そのときに、やっぱり自分の感情をコントロールしていかないと、見せ物は成立しないんだなってことを思い知らされたんです。それはそれで大事な経験で、「自分自身をからっぽにする」とか「人形になって立つ」っていうのをしていかないと、表現は成立しないんだってことが実感として理解できました。やっぱり全部お客さんに見透かされるんです。その時観たお客さんからも「もっと横滑んないとだめだよ」って言われ、原点のところに気付かされたというか。そこで、私の基点になってるのは何かっていったら、やっぱり野外に立ってたときに会得したあの感覚だなって。野外だと雨は降るし風は吹くし寒いし暑いし蚊はいるしみたいなことを全部受け入れるしかないから、やっぱりそこにもう一回戻ってみようと思っています。

喜多尾:私は、感覚中心なので(笑)、物語りやイメージに共感して感動するみたいなものが、どうも駄目なんですね。そういうものを介して出会うってことが、どうも嘘くさく感じるんです。物語りやイメージに感情移入するところではない部分で出会いたいんです。だから、観ている人のなかに「感覚」が起こることをやりたいと、最近はずっと思っているんです。「身体の知覚」は、観る側に起こるもの、という風に捉えようと今は思っていて…… 自分自身は身体感覚を大切にして、でも、内側にこもるんじゃなく、感覚を通して出会うっていうことを発生させたいなって思っています。

びよ:私は感覚といってもそこに感情の入る人間なんです。今回は、自分の身体を確認するところから始めたいなと思っています。例えば、どうしたらこの腕がこの腕として動かされるのか、というようなことを探っていきたいなあと。自分が動かすっていうんじゃなくて、動かされる自分にどうやったらなれるかっていう感じ。生かされているもの、生き物としての自分を確認していきたいと思っているんです。あと今回はなるべく形にはとらわれずに、丁寧に自分の意識や感覚に向き合っていきたいと思っています。

●いま、さまざまなことがフラットになり、感覚の薄いなかで日常が進んでいる感じがするのですが、そういった日常を過ごしている人たちに向かって、感覚に重きを置いた表現を共有していく難しさがあると思うのですが?

「きめ」があるから感覚する

横滑:この一年半満員電車に乗ってるんですけど、みんな電車のなかで鋼鉄のように立っているんですよね。

喜多尾:それって、感覚しないようにする為の身体なのかなと私は思っている。

横滑:世の中がとても表層的な神経しか使わないで動いている感じがしているんですよね。そういう中で、私は何に向かってこんな繊細なことを追求しなきゃいけないんだろうって、ふっと怖くなる事もあります。でもごちゃごちゃ考えてないで、自分一人でもやり続けていれば、誰かが見て何か感じたら、きっと伝わっていくはずだからという感じですかね。

喜多尾:そうそう、まずはやり続けることが大事。で、私はね「身体の知覚」をいろんな場で起こす為には、何が必要なのかってことをもっと研究していかないとって思っているの。殊に劇場では何か工夫を加えないと、やっぱり駄目だなとは思っている。でも、そうするときに、自分の感覚には嘘があってはツマラナイって感じるんです。このことについては、答えが見つかっているわけではないので、今は実践も含めて研究し続けるしかないって感じですね。

びよ:例えば、どういう風に研究してるの?
 
喜多尾;どのように感じられるかを、他人から伝えてもらうことを大切にしているんです。そうやって今のところ気付いたのは、身体には「きめ」があって、その「きめ」を探ることによって知覚が開いていくのかなと。「きめ」とは、「きめが細かい」とかの「きめ」のこと。「きめ」は 細かくても荒くてもいいんだけど、でもフラットだと感覚って残らないんですよね。感覚するのは「きめ」があるからだって、思うんです。

横滑:あとは、観せるっていうことは、テクニックなのかなと思っているんです。やっぱり、ただ一生懸命伝えようと思っても、それは一部の人にしか伝わらないのかなと。こちら側にいない人たちにも伝える為には、やはりテクニックというのか、演出なりを加味していかなきゃいけないのかなと思います。

喜多尾:私もそこはテクニックだと思うんだけど。技術と技能の両方が必要に感じる。

びよ:テクニックについては考えさせられますね。表現の切り口を考えることも必要と感じます。加えて、身体について探求していくことって、やっぱり経験が一番かなって。だからワークショップ的なものとパフォーマンスを一緒にすると、すごくわかってもらえる気がするんですよね。

●2014年1月に開催する「身体の知覚」という企画は、昨年から喜多尾さんと一緒に進めている企画で、びよさんと横滑さんのお二人には、喜多尾さんからお声をかけていただきました。今回の企画で考えていらっしゃることなどあればお話しください。

喜多尾:RAFTの来住さんからこの企画の話をいただいて、私とは違うタイプの人に声を掛けようと考えました。「身体の知覚」っていう山をいろんな方向から登っていくことによって、その山の全貌が見えてくるみたいな感じになっていけば面白いなと思っているんです。そこで、「身体の知覚」を意識して作品を創れそうな人に協力してもらおうと思い、びよさん、ナナさんに声をお掛けしました。びよさんにしても、ナナさんにしても、それぞれの「身体の知覚」を提示してくださると思うので、私自身、とても楽しみにしています。

●今回、みなさんからお話しがうかがえて、「知覚」という視覚では捉えられないものの輪郭がおぼろげに感じられたように思えます。公演のほうも期待しております。今日はお忙しいなか、お集りいただき、ありがとうございました。

【インタビューを終えて】
感覚について語るとき、よく五感ということが言われます(第六感なんてのもありますが……)。でもその五つの感覚は便宜上、五つに分けられているだけのことなのかもしれないと、お三方からお話しをうかがいながら思いました。ひとつひとつの感覚のなかにも無数の質感と幅があり、それを実感していくことによって、フラットな日常に奥行きが出て、感覚を通して、日常の風通しが良くなるのではないか。ぜひ、今回の公演に足をお運びいただき、お三方のパフォーマンスを通じて、「身体の知覚」について感覚していただければと思います。

インタビュー・文責・写真 来住真太(RAFT)

詳細→http://raftweb.info/chikaku2014

 

 
2014年1月10日(金)〜12日(日)
身体の知覚 カラダノチカク vol.2

詳細→http://raftweb.info/chikaku2014



1月10日(金)20時00分開演
喜多尾 浩代 単独ソロ公演

【Hiroyo Kitao】
幼い頃からドイツ・モダンダンスの系譜の中で踊り始めるが 徐々に逸脱。医(免疫)科学の領域で博士(Ph.D.)となり研究を続ける。2001年に 海外での放浪的表現活動を体験し、『現象として存在する身体ソノモノ』に興味を持ち始める。 現在は、肉体知が突き動かす身体感覚を基点に モノやヒトと交感してゆく プロセス的行為を『身体事』と名付けて、ソロ・パフォーマンス や 気づきのワークショップを 国内外の様々な環境で展開中。http://www.nsknet.or.jp/~kitao


1月11日(土)18時00分開演
横滑ナナ 単独ソロ公演

【Nana Yokosuberry】
東京都出身。美術、演劇活動を経てある日突然踊り始める。2004年より舞踏家大森政秀に師事、以降「天狼星堂」公演に参加、現在に至る。2006年よりテルプシコールを中心にソロ活動開始。2006年~2010年 月一回の野外舞踏シリーズ「ゆふつづ抄」全36回開催。2011年度第43回舞踊批評家協会新人賞受賞。(ソロ公演「とんがらづき」@テルプシコール)


1月12日(日)18時00分開演
菊地びよ 単独ソロ公演

【Biyo Kikuchi】
バレエ、演劇などを通り大野一雄・慶人の舞踏研究所にて学ぶ。ヨガや様々な身体表現・技法を取り入れ、あらゆるものに立ち現れる踊りを基に、身体の立つ場とその背後の存在を感じる過程から踊りを探求。ソロを中心にグループワーク、様々な場でのパフォーマンスやワークショップ、ほかのジャンルの表現者とのセッションなど取り組んでいる。「体話舎body dialogue space」主宰。玉川上水ライフらいんproject企画。
http://wind.ap.teacup.com/biyo/