一瞬日常がひっくり返って、
祝祭がそこで興るっていうか、
すごい美しいっていうか、
そういう状況を作りたいなあって


花上直人さんのパフォーマンスを初めて観たとき、さまざまな手製のオブジェを使いながら花上さんが語る世界のありように圧倒されたのを覚えています。演劇でもダンスや舞踏とも違う、混沌とした花上さんのパフォーマンス。そこには、強烈な個性と表現の豊さが凝縮されているように感じられます。そんな花上さんの表現は、どのように作られたのか。お話しは、高校生の頃の話からはじまります。

「高校時代に映画、ジャズ、学生運動にのめり込んだの。ブラスバンドでトランペットを吹いていて、授業さぼってジャズ喫茶なんて行くわけ。そこにはおかしな奴らが来ていて、詩と哲学と革命のことについて語り合ったり、反体制で前衛的な雰囲気があるの。そういうものがそのまま今の動力になっている感じかな」

はじめてパフォーマンスをしたのは、野外フェスでのことだったそうです

「“人間と大地のまつり”っていうのが代々木公園であって、そこで大きな蜘蛛の巣をつくってそれに張り付くパフォーマンスをしたのね、8時間くらい張り付いて。その蜘蛛の作品は、それ以降、八ヶ岳の尾根に巨大なもの作ったり、江戸川でやったりしたわけ。それから東京都美術館(上野)でやったときには、警察に逮捕されたり。そのときは“蜘蛛男が現る”みたいな感じで新聞にも載っちゃったんだよね」

命がけのパフォーマンスですね?

「いやいや、まずはね、遊び心。八ヶ岳のときはもうこれで本当に死ぬかな、みたいなことはあったけど。私としてはね、ほんとはね、もっとすごいところに蜘蛛の巣を張りたかったの。高校時代に新宿の淀橋浄水場 っていう今の高層ビル街に都民の水瓶があって、そこにどんどんビルが建っていったのね。それであの高層ビルの間に蜘蛛の巣を張りたいって思ったわけ。あそこは中央線に乗っている人含めたら、毎日何万人って人が通るわけじゃん。朝、寝ぼけ目の人が会社に行かなくちゃってときに、今のあれは何だ!?って。一瞬日常がひっくり返って、ある祝祭がそこで興るっていうか、すごい美しいっていうか、そういう状況を作りたいなあってのがあったの」

暗黒舞踏との出会いをうかがった。

「最初はパントマイムなの。『天井桟敷の人々』っていう映画のジャン=ルイ・バローのあれ観て、パントマイムやりたいって思ったの。その頃は中野に住んで、いろいろな仕事をしながらパントマイムを習ってた。仕事は駅の通り沿いにね、パチンコ台を作る会社があって釘を打ったりっていう。私ね小さい頃から手で何か作ったりっていう工作が好きだったの。だから仕事は合っていた。しばらくはパントマイムをやっていたんだけど70年代のはじめに土方さんが演出した『長須鯨』を観て、もう土方巽ってなっちゃった」

そして土方巽さんのアスベスト館に住み込むようになります。

「まずはね、なんだろうこれ?っていう疑問が大きくて、分からないものへの好奇心っていうのがあったの。土方さんのアスベスト館に住み込みという形で弟子入りしたわけだけど、3日間稽古しただけで、ストリップ劇場にダンサーとして出演させられたんだよね。西船橋のストリップ劇場。パントマイムやってたからね、なんか踊れると思われたのかな。すぐさま、はい、アダージオとかって言って、アダージオっていう一つのパターンがあって、こうやってきゅるきゅるっと回って、そのパターンが出来ちゃったから、もうストリップに出ろって」

花上さんのパフォーマンスのベースはアスベスト館で培ったのですか?

「いやいや、もちろんね、身体の動きはあったかもしれないけど。ただね、私、土方さんと合わなかった。呑んでるときに、土方さんに“花上さんは芸術家ですね”ってすっごい厭みっぽく言われて、もう“えー”って感じで。だからさ、私自身も入ってからすぐ“違うかなあ”って感じだったの。それとね、アスベスト館での生活がすっごく辛かった。先輩からしごきみたいのもあったし、それに稽古は夜中の12時から始まるの。寝ちゃいけない、食べちゃいけない。食べるとね身体が重くなるってね。昼間11時からストリップ劇場へ行って4ステージこなして、それで、夜中の11時頃帰って来て、12時から稽古。もうむちゃくちゃ。ただね、それはそれですごく面白い体験だった」

そこで得たものってなんですか?

「得たものっていうか、何しろ自分の身体に何か染みついたみたいな感じ。まぁ基本的にはダンスていうのは腰が安定して、手とか足とか動けば、まあいいよなみたいな。土方巽は最後にさ、東北歌舞伎計画っていうのをやろうとして途中で死んじゃったんだけど、このあいだテレビで歌舞伎をやってるのを見てたらさ、土方巽がもし生きてたら、本当にもの凄い作品をやったんじゃないかって、突然思ったんだよね。舞踏っていうのは股を割って地を這うって言うんだけど、本当に鋭い表現として、今の歌舞伎を革新するような動きをつくったんじゃないかって。でもそれを伝承する奴がいない、残念だよね」

偉大な人物だったんですね。

「偉大と言えば偉大。たださ、偉大とかってもう今となってはさ、なんか意味ないと言うか。偉大って言っちゃうと何となくその時点でさ、完成しちゃう感じ? もっと考えなくちゃいけない、って、考えるっていうか身体的にね……土方巽のやろうとしたことをもっと微分するみたいな、そういう事をしていかなくちゃって思うんだよ」

アスベスト館から離れテント芝居へ。

「住み込んだのは一年くらいかなあ。その後は別の仕事をしながら通ったりしていたんだけど、家庭的な事情などもあってアスベスト館へは行かなくなっちゃった。で、ちょうどその時に、アスベスト館からテント芝居の『風の旅団(当時は『曲馬館』)』へ行った奴がいて、そのテント芝居を観て、“何これすげー、このすごさ何?”って。もうすごく感動した。で、風の旅団に参加したりしてたんだけど、そこが解散になって、私も自分でテント芝居やり始めたのね。私のテントは一人でも建てられる仕様のものをまず自分で作ったの。重いものでも分割すれば一人で持てるし。常にパッチワークっていうか、スモール・イズ・ビューティフルっていう思想。身体(しんたい)を人間の身体(からだ)の基本の単位として認識して、それ以上はしないっていうか。そういうところが、年をとっても続けていられるところなのかも」

いま興味を持っていることはなんですか?

「いろんな好奇心に向かって、次なる面白いもの、それに動かされてる、それしかないよね。今さ、ユーチューブとか、映像があるじゃん。そのなかに動物の映像とか、何か変な発想の映像とか、ああいうものすごく面白い。で、ああいうのを、本当にたくさん見たい。で、自分も何かつくりたい」

今後の展開についてうかがったところ、想定を超える答えが返ってきた

「ギネスに世界最小の人形劇場を登録すること。私の作品に口腔劇場ってのがあるんだけど、それは口が開くと、劇が口の中で始まるってやつ。それをギネスブックに登録したい。でも、あれ金が必要みたい。登録に金がかかるの、いくらかは知らないけど」

 

【HANAUE Naoto】
1960年代終わり頃、大きな蜘蛛の巣を作りそこに張り付くパフォーマンス。70年代、暗黒舞踏、土方巽 アスベスト館。80年代、風の旅団でテント芝居。90年代以降 自身のテント劇場で旅をする。「とけるぅぅぅ〜」「恋の螺旋系」など上演。表現は多岐にわたる。







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