まともに扱われないけど、 栩秋さんは大学生の頃に学生演劇を始め、25歳のときにスタッフとして手伝いをしていた山海塾のダンサーとなりました。海外公演など多数の公演に参加。平行して、チェルフィッチュや神村恵さんの作品に出演。退団後の2011年にカンパニーを設立し、実験的な独自の方法論で、原初的表現と知覚システムをテーマに創作を行なっています。 見る部分が無い作品となると、なかなか人に伝わりにくくなることもあると思うのですが、そこらへんはどう考えていますか? 最近の栩秋さんの作品に「ふね、やまにのぼる(2012年 岸井大輔+トチアキタイヨウ+藤城光)、「私は山なのではないか?(2013年)」などがあります。それは、土地の記憶や自然と人との関係が題材になっているように思えます。作品をつくるにあたって考えていることについてうかがった。 「当たり前に普通に生活するところを手がかりに始めたいと思っているんです。それまで山海塾とかでやってきた事って、日常とはキッパリ切り離したところでの表現かなあと思うんです。普段を忘れさせてくれるという意味で、たぶんあれはあれでいいんだと思うんですけど、僕は自分の生活や感覚と地続きな中で、気付いたら変なことになっちゃうっていうか、その中に新しい発見があるというようにしたいなって。普段見過ごしているけど、実は自分たちの生活っていろいろなものとの繋がりの中にあるというか。例えば海とか山とか動物とか植物とか。僕の作品を観て、そういう繋がりに、ふと気が付いてしまうような感じだと嬉しいですね」 栩秋さんは山海塾で舞踏をずっとやられていたわけですが、いま取り組まれている表現と舞踏との関係についてお聞きした。 「僕のやっていることって考え方は舞踏だなって思ってるんですよ。身体とか、表現とか、環境とか、世界をどう捉えるかっていう最初の手がかりは舞踏からもらってるって思っています。舞踏というとどうしてもビジュアルイメージが強いんですよね、見た目で世界観つくるし、すごく見た目が強い。それをできるだけ使わないようにして、同じことをやりたいなって」 今回の作品についてうかがった。 「ノルってことをテーマにしてやり始めようかなと。ノルっていう感覚が何か、表現するみたいなことと結びつくんじゃないのかなって、何となくうっすら思ってて。ダンスだったらリズムにノルだったり、舞踏だったらイメージにノルだったり、何かにノってる身体って身体が世界をつくってるっていうか、ノっている身体というものが踊りってものなのかなあって。あと踊りじゃなくても、生活とか社会とかコミュニティーとか、経済や都市などのシステムでもいいし、何かに支えられてるとかいうことで、自分たちが形作られるている感じがしていて。何かにノルこと、支えられることによってその身体に時間が流れるっていうことがあるんじゃないのかなって。それがとっても、表現とか何かを表すところの根本になってくるのかなって」 それをどのような作品として形にしていくのでしょうか。 「これから作業していくので、どのような形になるかはまだわかりません。最初の作業としては、いろいろな人と話をしてノルってどういう感じかっていうのを確かめていこうと思っています。もう一つは普段の生活だとか街の中とか社会の仕組みの中に“あ、これもノってるってことかな”みたいなことを発見して作業をしつつ、どう作品にしていくかを考えていきたい。僕は個から表現をつきつめていくのではなく、いろいろな人の関わりから表現を見つけていきたいと思っていて、このひとならそれをどう感じるか、どう言葉にするかなど、そこから物事の輪郭を辿っていくようにして、周囲を見渡すことで、その中身を見つけていきたいと思っています」 これからの展開についてお聞きした。 「この先のことですか……先はね見えない方がいいと思ってるんですよ。先が見えちゃうととたんにつまらなくなっちゃうから」 |
【TOCHIAKI Taiyo】 1973年生まれ、ダンサー・俳優・演出家。舞踏カンパニー「山海塾」でダンサーとして10年活躍。2009年退団。 2011年taiyotochiaki&Co.設立。近年は、体と町をフィールドにした調査・観察を創作の中心とし、表現の始まりにある身体感覚を捉えようと試みている。http://tochiakitaiyo.com/ インタビューを終えて→◎ |